2月7日 日露和親条約締結

2月7日 1855年(安政元年12月21日)の今日この日  日露和親条約締結
日露和親条約の原文(外務省外交史料館蔵)
日露和親条約(Симодский трактат)は、1855年2月7日(安政元年12月21日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨ロシア側全権は提督プチャーチン
本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。



川路 聖謨(かわじ としあきら)
江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。

豊後日田代官所の役人の息子に生まれながらも、まれにみる才幹を示して、勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任している。そして、勘定奉行在任のまま海防掛になった。 幕末きっての名官吏で、有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。





エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(ロシア語: Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин、英語: Jevfimij Vasil'jevich Putjatin、1803年11月8日(グレゴリオ暦11月20日) - 1883年10月16日(グレゴリオ暦10月28日))は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、教育大臣(在任期間:1861年6月26日 – 1861年12月25日)。

1853年、日本に来航し日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国の極東における外交で活躍した。





主な内容

  • 千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
  • 樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする
  • ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
  • ロシア領事を日本に駐在させる
  • 裁判権は双務に規定する
  • 片務的最恵国待遇
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の1858年に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。

北方領土問題と日露和親条約の関連

北方領土問題において、「千島列島」の範囲が一つの争点となっており、日本政府は、1951年にサンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄したが、歯舞・色丹は含まない(北海道の一部である)としたうえで国後、択捉についても明確にしなかった。これは1946年2月のソビエトによる一方的な併合宣言や、すでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による角逐(朝鮮戦争)の緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったため。ソビエトも米国による西南諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での実効支配を非難し、また日本が放棄した旧領土(南樺太および千島)の帰属を意図的に除外しているサンフランシスコ条約の英米案を非難している。
サンフランシスコ講和会議において、吉田は国後・択捉のソビエトによる収容を一方的と非難し、また歯舞・色丹は北海道(日本の本土)であると説明。その根拠として、日露和親条約第二条での平和的な国境の画定を指摘している。
和田春樹等によればサンフランシスコ条約で放棄すべきと明記された千島列島(クリル諸島)とは日露和親条約から明記されてきた地理的呼称であり北方四島は当然に含むものであり、日本政府の解釈(と和田のいう、クリルに北方四島は含まないとの主張)は誤りだとする。和田によればこれは日露和親条約を"誤訳"した日本語文を根拠とした主張であり、ロシア語・オランダ語からはこのような主張は成り立たないとする。
1992年5月、日本政府はロシア語のパンフレット『日本の北方領土』を発行し、ロシア国内に配布した。このパンフレットの中で、北方領土はサンフランシスコ条約で放棄したクリル諸島に含まれないとの主張をするため、日露和親条約第二条の日本語条文をロシア語に翻訳し、『実際の条約とは異なる』条文を作成したとする。