2月14日 【羽生善治】史上初 将棋タイトル七冠独占達成

2月14日 1996年の今日この日
羽生善治が史上初の将棋のタイトル七冠独占を達成


羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )
日本の将棋棋士。二上達也九段門下。棋士番号は175。

1996年2月14日、将棋界で初の7タイトル独占を達成。
全7タイトルのうち竜王を除く6つでの永世称号(永世名人(十九世名人)・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将)の資格を保持(「永世六冠」)。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、7つの永世称号の保持は史上初。

通算優勝回数147回、通算公式戦優勝回数137回、通算タイトル獲得94期、タイトル戦通算登場回数124回、同一タイトル戦連続登場回数24回(王座)、同一タイトル獲得通算23期(王座)は歴代1位の記録。また、通算非タイトル戦優勝回数53回、通算非公式戦優勝回数10回、最多最優秀棋士賞20回、獲得賞金・対局料ランキング首位20回も歴代1位。一般棋戦優勝回数43回は大山(44回)に次いで歴代2位。
1992年に王座・竜王を獲得して以降、いずれかのタイトルを24年に渡って維持しており、一冠までに追い込まれたのは2004年のわずか89日間(王座)のみ。その前後も年度複数冠は達成しているため、年度複数冠継続の記録は2015年現在も更新中。

羽生とほぼ同じ年齢にトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。



七冠独占

1992年度、第40期王座戦福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となる。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。

同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、「タイトル保有の図式が逆転」した。
1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる。羽生はこのときに「初めて七冠を意識した」。しかし、竜王戦で佐藤康光に敗れ四冠に後退する。

一方、順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格。そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得る。この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年から初めて名人位に就いていた50歳の米長邦雄名人であった。羽生は3連勝・2連敗の後の第6局で勝ち、奪取。

同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得。ついに、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。



そして最後の第7局(1995年3月23 - 24日)は、青森県・奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神淡路大震災で被災したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めて。敗れた羽生は、「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」。

ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。そのかたわら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖、森内俊之、丸山忠久、郷田真隆、有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取る。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった。

【七冠達成の図】
第45期王将戦第4局
82手目△7八金
△羽生善治竜王・名人
持駒:金銀桂歩四
Shogi zhor 22.png
918171615141312111
928272625242322212
938373635343332313
948474645444342414
958575655545352515
968676665646362616
978777675747372717
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Shogi zver 22.png
▲谷川浩司王将
持駒:飛角金桂歩三

第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、山口県マリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日 - 2月14日)を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には
250名近くに達した。羽生の後手番で戦形は横歩取りの激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占を達成した。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、
それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという

直後に第21期棋王戦
(七冠王としての最初の防衛戦)高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝。年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、当時歴代2位の0.8364(46勝9敗)。

新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦(第54期)であり、4勝1敗で防衛に成功。名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年かかることになる。

棋風・評価

攻守ともに優れた居飛車党であり、急戦・持久戦問わず指しこなす。また、振り飛車を採用することもある。
好きな駒は銀将。攻め、受けの要であるため。
勝又清和は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている。
終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「羽生マジック」と呼ばれ、それを表題とした書籍も複数出版されている。
金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている。
著書『決断力』で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。
長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない」観戦記者も「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になるなどと考えない」と語る。
渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日」、「羽生名人はどんな戦法も指せる」、「情熱大陸」の竜王戦密着取材では、第1局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな…」と、ナレーションの「差を見せ付けられた」との声とともに語った。
深浦康市は2003年に、「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ」と語っている


「過去の知識や情報は、すべて素材だ。
それらは、次の新しいものを想像する素材として利用されるためにある。
過去の素材であっても、適切に組み合わせれば、新しい料理をつくることができるのだ。
しかし、情報をいくら分類、整理しても、どこが問題かをしっかり捉えないと正しく分析できない。
さらにいうなら、山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」、そして「出すか」のほうが重要なのである。
情報メタボにならないためにも、意識的に出力の割合を上げていくことが重要になる。」
(羽生善治)