2月18日 1981年の今日この日
ロナルド・レーガン米大統領が
「強いアメリカ」再生のための経済再建計画
「レーガノミクス」を発表
レーガノミクス(Reaganomics)
アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンがとった、一連の自由主義経済政策。
前民主党政権の政策が企業の活動を阻害し労働者の勤労意欲を奪ったとの主張から、市場原理と民間活力を重視し、社会保障費と軍事費の拡大で政府支出を拡大させ、同時に減税を行って刺激政策を採用し、経済規模は一時拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という「双子の赤字」を抱えることになった。
レーガン大統領の一期目は前政権から受け継いだスタグフレーション状態の経済の回復が課題であった。政権はインフレーションと失業に注目。レーガンの経済政策は減税による供給面からの経済刺激を主張するサプライサイド経済学に基づいている。またスタグフレーションの物価上昇という弊害を抑えるために「通貨高政策」を前提条件にしていた。経済学者の多くは、減税を経済の需要面から刺激する政策と考えるが、サプライサイド経済理論支持者は、供給面においてはるかに大きな効果があると主張した。
ジョージ・H・W・ブッシュは当初、副大統領就任前にこの経済政策を「呪術経済政策(ブードゥー・エコノミー)」と呼び揶揄したが、すぐにレーガノミクスとして知られるようになった。社会保障支出と軍事支出の増加と並行して行われた減税は、巨額の財政赤字と累積債務の増加をもたらし、政府の累積債務はレーガン大統領の就任時と比較して、後任のジョージ・H・W・ブッシュ大統領の就任時には、金額では909,041Millions$から2,601,104Millions$へ2.6倍、GDP比では33.4%から51.9%に増加した。
この政策群の理想的展開は、「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というもの。
Trickle Down
トリクルダウン経済についてバーニー・サンダース候補が話している映像。26:50あたりで登場する棒グラフの赤が大企業の社長や億万長者などのトップ10パーセントを占める支配階級で青が残りの90パーセントの平均収入を示したもの。1990年代前半から赤と青がひっくり返っている。
経済学者の伊藤修は「大幅減税と軍事費(財政支出)の増大によって、反ケインズ主義の思想に立ちながら結果、ケインズ的な需要刺激策となった」と指摘している。
実際の展開は想定とはかなり異なった。1970年代末からすでに金融政策はインフレ退治に乗り出しており、政権発足時にはかなり高金利になっていた。そこに、社会保障支出と軍事支出の拡大と減税をセットにした大型の財政政策が発動されることになったため、高金利はいっそう拍車がかかった
この高金利は民間投資を停滞させると同時に日本などの外国資金のアメリカへの流入を促進し、その為替レートをドル高に導いた。ドル高は、輸出減退と輸入増大をもたらし、インフレ率の低下へつながった。財政赤字の増大はこのようにして民間投資の減少と経常収支赤字によってバランスされインフレーションへはつながらなかった。失業率は1980年の7.1%から1982年には9.7%に増大したが、1988年には5.5%に減少し、失業者数は1980年の827万人から1983年には1071万人に増大したが1988年には670万人に減少した。
1982年中にはインフレ率の低下から高金利政策は解除段階に入った。1983年には景気回復が始まったが、社会保障支出と軍事支出の拡大と減税という財政政策を受けた消費の増大(乗数効果)が主因であった。税率を引き下げていたためこの経済回復の最中でも歳入はそれほど増加せず、社会保障支出の拡大とSDIに代表される軍事歳出の拡大により財政赤字が拡大した。ドル高の持続と景気回復によりさらに経常赤字も拡大。経常赤字が貯蓄投資バランスの不均衡を受け止めたため、また原油価格の大幅の下落という要因も加わり、インフレも顕在化することは無かった。なお、レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張した。
1984年には失業率の低下や景況感の回復がさらに強まったが、経常赤字のますますの拡大は日本と欧州に、ハイテク製品による莫大な経常黒字(ハイテク景気)をもたらし諸外国へインフレを輸出しているとの批判を浴びることになる。
1985年秋に、プラザ合意が形成され、為替相場は一気にドル安となった。
連邦政府機関の雇用者は1980年の497万人から1988年には536万人に増大し、軍人以外の連邦政府機関の雇用者数は1980年の287万人から1988年には311万人に増大した。
1980年代のアメリカ経済は、年度の通貨額ベースのGDPは1980年の2,724billions$から1988年には5,008billions$へ1.84倍に増大した。企業の投資資金は、高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお、株式ブームは1987年のブラックマンデーにより終了した。しかし、この株式ブームはFRBの裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことがアメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。
ロナルド・レーガン米大統領が
「強いアメリカ」再生のための経済再建計画
「レーガノミクス」を発表
レーガノミクス(Reaganomics)
アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンがとった、一連の自由主義経済政策。
前民主党政権の政策が企業の活動を阻害し労働者の勤労意欲を奪ったとの主張から、市場原理と民間活力を重視し、社会保障費と軍事費の拡大で政府支出を拡大させ、同時に減税を行って刺激政策を採用し、経済規模は一時拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という「双子の赤字」を抱えることになった。
ロナルド・レーガン
Ronald Reagan

任期 1981年1月20日 – 1989年1月20日
副大統領 ジョージ・H・W・ブッシュ
任期 1967年1月2日 – 1975年1月6日
出生 1911年2月6日
イリノイ州タンピコ
死去 2004年6月5日(満93歳没)
カリフォルニア州ベル・エア
政党 共和党
配偶者 ナンシー・レーガン
署名 
Ronald Reagan




経緯

ジョージ・H・W・ブッシュは当初、副大統領就任前にこの経済政策を「呪術経済政策(ブードゥー・エコノミー)」と呼び揶揄したが、すぐにレーガノミクスとして知られるようになった。社会保障支出と軍事支出の増加と並行して行われた減税は、巨額の財政赤字と累積債務の増加をもたらし、政府の累積債務はレーガン大統領の就任時と比較して、後任のジョージ・H・W・ブッシュ大統領の就任時には、金額では909,041Millions$から2,601,104Millions$へ2.6倍、GDP比では33.4%から51.9%に増加した。
展開と結果
レーガノミクスの主軸は、社会保障費と軍事費の拡大で政府支出を拡大、減税、規制緩和、インフレ収束であった。社会保障支出と軍事支出の拡大により、経済を発展させ、強いアメリカを復活させる。減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。規制を緩和し投資を促進する。金融政策によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。この政策群の理想的展開は、「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というもの。
Trickle Down
トリクルダウン経済についてバーニー・サンダース候補が話している映像。26:50あたりで登場する棒グラフの赤が大企業の社長や億万長者などのトップ10パーセントを占める支配階級で青が残りの90パーセントの平均収入を示したもの。1990年代前半から赤と青がひっくり返っている。
経済学者の伊藤修は「大幅減税と軍事費(財政支出)の増大によって、反ケインズ主義の思想に立ちながら結果、ケインズ的な需要刺激策となった」と指摘している。
実際の展開は想定とはかなり異なった。1970年代末からすでに金融政策はインフレ退治に乗り出しており、政権発足時にはかなり高金利になっていた。そこに、社会保障支出と軍事支出の拡大と減税をセットにした大型の財政政策が発動されることになったため、高金利はいっそう拍車がかかった
この高金利は民間投資を停滞させると同時に日本などの外国資金のアメリカへの流入を促進し、その為替レートをドル高に導いた。ドル高は、輸出減退と輸入増大をもたらし、インフレ率の低下へつながった。財政赤字の増大はこのようにして民間投資の減少と経常収支赤字によってバランスされインフレーションへはつながらなかった。失業率は1980年の7.1%から1982年には9.7%に増大したが、1988年には5.5%に減少し、失業者数は1980年の827万人から1983年には1071万人に増大したが1988年には670万人に減少した。
1982年中にはインフレ率の低下から高金利政策は解除段階に入った。1983年には景気回復が始まったが、社会保障支出と軍事支出の拡大と減税という財政政策を受けた消費の増大(乗数効果)が主因であった。税率を引き下げていたためこの経済回復の最中でも歳入はそれほど増加せず、社会保障支出の拡大とSDIに代表される軍事歳出の拡大により財政赤字が拡大した。ドル高の持続と景気回復によりさらに経常赤字も拡大。経常赤字が貯蓄投資バランスの不均衡を受け止めたため、また原油価格の大幅の下落という要因も加わり、インフレも顕在化することは無かった。なお、レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張した。
1984年には失業率の低下や景況感の回復がさらに強まったが、経常赤字のますますの拡大は日本と欧州に、ハイテク製品による莫大な経常黒字(ハイテク景気)をもたらし諸外国へインフレを輸出しているとの批判を浴びることになる。
1985年秋に、プラザ合意が形成され、為替相場は一気にドル安となった。
連邦政府機関の雇用者は1980年の497万人から1988年には536万人に増大し、軍人以外の連邦政府機関の雇用者数は1980年の287万人から1988年には311万人に増大した。
1980年代のアメリカ経済は、年度の通貨額ベースのGDPは1980年の2,724billions$から1988年には5,008billions$へ1.84倍に増大した。企業の投資資金は、高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお、株式ブームは1987年のブラックマンデーにより終了した。しかし、この株式ブームはFRBの裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことがアメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。