2月21日 マルクスMarx&エンゲルスEngels『共産党宣言』出版

2月21日 1848年の今日この日
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』が出版される。
社会主義運動の出発点。
Kommunistischen Partei

『共産党宣言』(Manifest der Kommunistischen Partei)
または『共産主義者宣言』(Das Kommunistische Manifest)
1848年にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって書かれた書籍。マルクス主義者による共産主義の目的と見解を明らかにした最初の綱領的文書とされている。
前年の6月、ロンドンで発足した『共産主義者同盟』の宣言を出すことになり、その起草がブリュッセルとパリに亡命していたマルクスとエンゲルスに依頼された。出来上がった原稿は二月革命の数週間前にあたる1月末に印刷のためロンドンに送られ、48年2月末、ロンドンで本となった。3月20日ごろパリに千部ほど送られたという。<岩波文庫版解説P.105-6>

『共産党宣言』の有名な冒頭の一節。『ヨーロッパに幽霊が出る-共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる、法皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランス急進派とドイツ官憲。‥‥共産主義はすでに、すべてのヨーロッパ強国から一つの力と認められている‥‥』<岩波文庫『共産党宣言』P.37>


カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx)(1818年5月5日 - 1883年3月14日)
プロイセン王国(現ドイツ)出身のイギリスを中心に活動した哲学者、思想家、経済学者、革命家。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。彼の思想はマルクス主義(科学的社会主義)と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。
フリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義、いわゆるマルクス主義を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。資本主義社会の研究をライフワークとし、それは主著『資本論』で結実した。『資本論』に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。





フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)
(1820年11月28日 - 1895年8月5日)
ドイツの社会思想家、政治思想家、ジャーナリスト、実業家、共産主義者、軍事評論家、革命家、国際的な労働運動の指導者。

カール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築、労働者階級の歴史的使命を明らかにし、労働者階級の革命による資本主義がもたらした発達した生産力の継承と資本主義そのものの廃絶、共産主義社会の構築による人類の持続的発展を構想し、世界の労働運動、革命運動、共産主義運動の発展に指導的な役割を果たした。



時代背景

1848年革命
ウィーン体制を終わらせた1848年ヨーロッパの一連の革命運動。
1848年はヨーロッパ各地で保守反動の君主制国家に対する、自由主義・ナショナリズムの反乱が連鎖反応的に起こり、一挙にウィーン体制が崩壊した。フランスの七月王政を倒した二月革命、ウィーンとベルリンにおける三月革命、さらにメッテルニヒの失脚というオーストリア帝国の動揺に乗じた、その支配を受けていた諸民族の独立運動である、イタリアのマッツィーニによるローマ共和国の建国、ミラノとヴェネティアなどイタリアでの革命、またハンガリーの独立運動など、この年に起きた一連の革命を「1848年の革命」と総称する。そしてこの年の今日この日にマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』が刊行されている。



世界史上の1848年
ウィーン体制下(1815年)のヨーロッパ
 19世紀のほぼ中頃にあたるこの年は、世界史上の重要なことが集中して起こっており、その同時性に注目が必要。まず1848年革命といわれる一連の二月革命、三月革命によってウィーン体制が崩壊。それをうけてオーストリアに抑圧されていた民族の独立運動が一斉に起こった。この自由主義・民族主義の高揚は「諸国民の春」と言われてた。フランスに第二共和政が成立、イギリスでは議会政治の発展の中で労働者の選挙権要求であるチャーティスト運動の最後の高揚を見せ、一方では前年の46年に穀物法廃止、翌49年の航海法廃止で自由貿易主義が勝利を占めている。ドイツでも統一と民主化をめざす運動が激化し、イタリアではマッツィーニらの青年イタリアが一時権力を握り、ローマ共和国を建国。時代はこの年を転換点として、ウィーン反動期から資本主義の全盛期としての19世紀後半へと移っていく。ヨーロッパ社会の新たな対立軸は、従来の絶対君主対市民ではなく、資本家階級と労働者階級という階級対立に移ったことを示すのが同年に発表されたマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』であった
Lamartine in front of the Town Hall of Paris rejects the red flag on 25 February 1848

 1848年はアメリカ合衆国においても重要な年であった。まずアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)の結果、グワダルペ=イダルゴ条約が締結され、カリフォルニアとニューメキシコを獲得した。アメリカが獲得した新領土、カリフォルニアで金鉱が発見され、それを契機として大規模な西部への人口移動であるゴールド=ラッシュが起こった。これは大西洋岸から太平洋岸に及ぶ北米大陸に巨大国家アメリカ合衆国が誕生したことを意味している。 

 同時に世界全体ではヨーロッパ資本主義諸国によるアジア、ラテンアメリカ諸地域への植民地支配の本格化とそれへの抵抗の始まりというテーマに移行していく。アジアではイランでバーブ教徒の反乱が起こっている。その前後に1840年のアヘン戦争、50年代の太平天国の乱、アロー戦争、1857年のインド大反乱が起こった。




ロシアの19世紀(第一次ロシア革命)
そしてロシアにおいては、皇帝ニコライ2世(帝政ロマノフ朝最後の皇帝)の専制政治下、フランス資本の導入とともに資本主義が発達していく。大工業も発展し、シベリア鉄道の着工もこのころ。しかし帝政とともに貴族制の強い特性があった。イギリスやフランスが名誉革命・フランス革命を経て、産業革命が資本家も労働者も同じ市民レベルとして行われたのに対して、労働者からの貴族の搾取が継続するという特殊性があった。すなわちロシアの産業革命は支配層主導で行われた。こうした背景から労働者層に平等社会の実現の機運が生まれ、これがマルクス主義によるロシア社会民主労働党(のち分裂して多数派のボリシェビキ(革命を求める急進派;レーニン等)と少数派のメンシェベキ(改革・穏健派;プレハーノフ等))、社会革命党(ナロードニキ;農民層主体)、立憲民主党(立憲君主制を主張)らが乱立することになる。現在のロシアとフランスとのつながりもこのころから下地ができあがったことは興味深い。


第一次ロシア革命
さらにこういったなかロシアは、悲願の不凍港獲得に向け南下政策をとることとなり、インド、中国そして日本へ目を向け始める。そして満州支配の利害でぶつかり日露戦争が引き起こされることになる。この日露戦争により鉱業生産が逼迫し、すでに困窮を極めていたロシア国民の不満がピークに達する。貴族・資本家への不満につながり、『血の日曜日事件』が引き起こされる(ショスタコーヴィチ:交響曲11番『1905年』はこの血の日曜日事件を表したもの)。この事件を発端として反皇帝運動が高まり、ロシア全国にリヴィエト(評議会:自治組織)が結成される。こうしたなか、首相ウィッテ起草の10月宣言がなされる。しかしニコライ2世の専制政治の改革には至らずかえって反動政治を生むこととなる(議会解散、革命派弾圧;ストルイピンのネクタイと呼ばれた)。国民の革命への機運は一気に高まり、この後、第一次世界大戦中の第2次ロシア革命へとつながっていく。

『共産党宣言』の概略

以下の四章構成。
第1章「ブルジョワプロレタリア
第2章「プロレタリアと共産主義者」
第3章「社会主義的および共産主義的文献」
第4章「種々の反対党に対する共産主義者の立場」


第1章
「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」という有名な章句で始まり、ブルジョワジーの時代(のち「資本主義的生産様式」)は生産と社会をどう変えてしまったかを述べ、現代は生産力と生産関係の矛盾が激化した社会革命の時代であるとして、プロレタリアートという勢力がその革命を担う、という内容を述べている。また一方では商人資本・産業資本へと展開されるヨーロッパ各国の経済発展とその生産関係の変革を述べながら、ブルジョワ階級の政治的支配者としての台頭、そしてそれによる近代的代議制国家の確立、政治的意志の中央集権化の過程について述べている。賃金制による労働の本質の変貌、反動主義者も落胆する世界市場の国の独自性を奪う世界主義的性質についても述べられる。さらに社会的諸関係の変化から、一個の“商品”として現れる労働力の存在へと議論が発展していく。「暴力によるブルジョワジーの転覆」という内容もここに登場するが、ここの論旨はプロレタリアートによって「競争による孤立化の代わりに、協同(Assoziation)による革命的団結を作り出す」ことにあると言える。

第2章
共産主義者の運動の目的・性格づけが行われている。正義者同盟をバブーフ的なものからマルクス的なものへ変えるという当初のねらいからすれば、重要な意味をもつ箇所。とくにあらゆる財貨を共有し、完全平等を図るというバブーフ的な共産主義(そして今日でも広く共産主義はそういうものだと思われている)を「粗野な平等化」(第3章)と批判し、所有一般の廃絶ではなく「ブルジョワ的所有の廃止」が目標化された。ブルジョア的所有に対しては「専制的な侵害」なくしてプロレタリアの支配は達成できないとし、例として所得税の強力な累進課税、相続権の廃止、、亡命貴族の財産没収、土地や銀行から工場などの国有化、生産手段の共有化、農業と工業の融合、児童労働の廃絶、無償の義務教育を挙げ、プロレタリアが支配階級として組織化された暁にはやがて自ら階級支配を廃し、国家権力も「政治的性格を失う」という見通しを述べた。

第3章
第1節「反動的社会主義」
a.封建的社会主義
b.小ブルジョワ的社会主義
c.ドイツ社会主義または「真正」社会主義
第2節「保守的社会主義またはブルジョワ社会主義」
第3節「批判的ユートピア的社会主義および共産主義」

ここでは18世紀から19世紀にかけてヨーロッパに存在した多用な社会主義的潮流をどうみるか、という問題にあてられている。当時は「社会主義」「共産主義」を名乗ることが流行のように行われていたので、さまざまな流派が存在していた。その主な検討・批判の対象は第1節cのドイツの真正社会主義であり、モーゼス・ヘスとカール・グリューンが名指しで批判される。また、小ブルジョワ的社会主義(第1節b)や空想的社会主義(第3節。サン=シモン、フーリエ、プルードン等)について、その歴史的意義を積極的に示すと共に、その限界が批判的に論じられる。
第4章は、共産主義者ではない政治勢力に対する共産主義者の政治スタンスのとり方である。「一言で言えば、共産主義者は、いたるところで現に存在する社会的・政治的状態に対するどの革命運動をも支持する」とあるように、ブルジョワジーが中心の運動であってもそれが社会発展にかなっていれば支持をすべきという立場を表明した。つまり「ドイツがブルジョワ革命の前夜にある」とした上で、共産主義者はドイツに対してプロレタリア革命ではなく、ブルジョワ革命を展望すべきとしているのである。
末文は「共産主義者は自らの意図や信条を隠すことを軽蔑する。プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。彼らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ」という有名な章句で閉じられる。