3月8日 1776年の今日この日
アダム・スミスが『国富論』の初版を刊行
アダム・スミスが『国富論』の初版を刊行
アダム・スミス
古典派経済学 | |
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アダム・スミス
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生誕 | 1723年6月5日(洗礼日)![]() |
死没 | 1790年7月17日(満67歳没)![]() |
研究機関 | エディンバラ大学 グラスゴー大学 |
研究分野 | 政治哲学 神学 倫理学 経済学 |
母校 | グラスゴー大学 ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学) |
影響を 受けた人物 | アリストテレス ジョン・ロック バーナード・デ・マンデヴィル フランソワ・ケネー フランシス・ハチソン デイヴィッド・ヒューム ジャン=ジャック・ルソー エドマンド・バーク |
実績 | 古典派経済学 自由市場 分業 見えざる手 労働価値説 絶対優位 |
署名 | ![]() |
アダム・スミス(Adam Smith)
(1723年6月5日(洗礼日) - 1790年7月17日)
イギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・神学者・哲学者。スコットランド生まれ。主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。「経済学の父」と呼ばれる。
(1723年6月5日(洗礼日) - 1790年7月17日)
イギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・神学者・哲学者。スコットランド生まれ。主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。「経済学の父」と呼ばれる。
グラスゴー大学で哲学者フランシス・ハチソンの下で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学するが、1746年に退学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教え始め、1750年頃、後に友人となる哲学者ヒュームと出会う。その後、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任。1759年にはグラスゴー大学での講義録『道徳情操論』(または『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments)を発表し、名声を確立。同書の理論は我々には道徳を感じる感覚(Moral Sence)があるというモラル・センス学派に含まれる。
1763年には教授職を辞し、フランスに渡る。パリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でジャック・テュルゴーやジャン・ル・ロン・ダランベール、フランソワ・ケネーをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。イギリスに戻ったスミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆にとりかかる。
アメリカ独立、テュルゴー失脚の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらした。
いくつかの論文を除けば、著書は前記の2冊のみで、死の直前までその改定増補を続けた。他に法学に関する著作を執筆する意欲を『道徳感情論』と『国富論』に記したが、ついに果たさなかった。
1763年には教授職を辞し、フランスに渡る。パリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でジャック・テュルゴーやジャン・ル・ロン・ダランベール、フランソワ・ケネーをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。イギリスに戻ったスミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆にとりかかる。
アメリカ独立、テュルゴー失脚の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらした。
いくつかの論文を除けば、著書は前記の2冊のみで、死の直前までその改定増補を続けた。他に法学に関する著作を執筆する意欲を『道徳感情論』と『国富論』に記したが、ついに果たさなかった。
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『諸国民の富の性質と原因の研究』 (An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations) |
構成
序論(introduction)および本書の構想(plan)
第1篇 - 労働(labor)の生産力(productive powers)における改善(improvement)の原因(causes)と、その生産物(produce)が国民(people)のさまざまな階級(ranks)のあいだに自然(naturally)に分配(distribute)される秩序(order)について
- 第1章 - 分業(division of labor)について
- 第2章 - 分業(division of labor)をひきおこす原理(principle)について
- 第3章 - 分業(division of labor)は市場(market)の大きさ(extent)によって制限(limit)される
- 第4章 - 貨幣(moeny)の起源(origin)と使用(use)について
- 第5章 - 商品(commodities)の真の価格(real price)と名目上の価格(nominal price)について、すなわちその労働価格(price in labor)と貨幣価格(price in money)について
- 第6章 - 商品(commodities)の価格(price)の構成部分(component parts)について
- 第7章 - 商品(commodities)の自然価格(natural price)と市場価格(market price)について
- 第8章 - 労働(labor)の賃金(wages)について
- 第9章 - 資本(stock)の利潤(profits)について
- 第10章 - 労働(labor)と資本(stock)の種々な用途(employments)における賃金(wages)と利潤(profits)について
- 第11章 - 土地(land)の地代(rent)について
- 第1章 - 資本(stock)の分類(division)について
- 第2章 - 社会(society)の総資材(general stock)の一特定部門(particular branch)とみなされる貨幣(money)について、すなわち国民資本(national capital)の維持費について
- 第3章 - 資本(stock)の蓄積(accumulation)について、すなわち生産的労働(productive labor)と非生産的労働(unproductive labor)について
- 第4章 - 利子(interest)を取って貸し付けられる資本(stock)について
- 第5章 - 資本(capitals)のさまざまな用途(employments)について
- 第1章 - 富裕(opulence)になる自然(natural)な進路(progress)について
- 第2章 - ローマ帝国(Roman Empire)没落後のヨーロッパ(Europe)の旧状(ancient state)における農業(agriculture)が阻害(discouragement)について
- 第3章 - ローマ帝国(Roman Empire)没落後における都市(cities and towns)の発生(rise)と発達(progress)について
- 第4章 - 都市(towns)の商業(commerce)がいかにして農村(country)の改良(improvement)に貢献(contribute)したか
- 第1章 - 商業主義(commercial)または重商主義(mercantile system)の原理(principle)について
- 第2章 - 国内(home)でも生産(produce)できる財貨(goods)の外国(foreign countries)からの輸入(importation)に対する制限(restraints)について
- 第3章 - 貿易差額(balance)が自国に不利(disadvantageous)と思われる諸国からのほとんどあらゆる種類の財貨(goods)の輸入(importation)に対する特別の制限(extraordinary restraints)について
- 第4章 - 戻税(drawbacks)について
- 第5章 - 奨励金(bounties)について
- 第6章 - 通商条約(treaties of commerce)について
- 第7章 - 植民地(colonies)について
- 第8章 - 重商主義(mercantile system)の結論(conclusion)
- 第9章 - 重農主義(agricultural systems)について、すなわち土地(land)の生産物(produce)がすべての国(country)の収入(revenue)と富(wealth)の唯一または主な源泉(source)だと説く経済学(political economy)上の主義について
- 第1章 - 主権者(sovereign)または国家(commonwealth)の経費(expences)について
- 第2章 - 社会(society)の一般収入(general revenue)あるいは公共収入(public revenue)の財源(sources)について
- 第3章 - 公債(public debts)について
「富とは国民の労働で生産される必需品と便益品」
人間だけが行うことのできる生産性を高めるための分業
この様な部分知にしか基かず、全体を見渡した行動ではない(たとえその投資行動が社会全体の利益実現を何ら念頭に置いたものではなくとも)、自利心に導かれた行動、つまり、個別投資家の行動が自らに係る資産運用において安全かつ効率的であろうとすることが、結果的に、あたかも「見えざる手」に導かれるかの様に、全体としての効率的な投資を実現し、経済を成長させることを論じた。逆に、他人の個々の投資行動を指図しようとする行為は、誰も責任を取れない行為であり、有害であるか無益なものになる。
この言葉はしかし、現代の初等経済学では元の文脈を離れて、市場における自由競争が最適な資源配分をもたらす、(需給関係を通じた価格変動の)自動的な調整機能を指すものとして使われることが多い。
当時最も一般的な経済の考え方であった「重商主義」を批判。
重商主義では、輸出によって金や銀などの貴金属が国に入ってくる、この貴金属こそが富だと考えられていた。輸入をすると支払いに貴金属を使うので、国から貴金属が出ていってしまう。だから輸入は国を豊かにしないという考え。つまり、輸出によって貴金属をため込むことが国を豊かにし、輸入は国の富を減らすということ。アダム・スミスはこの考えを否定。輸出をすることによって国に貴金属が入ってくること、その一方で、その貴金属を使って海外からいろいろなものを買う、すなわち輸入をする。輸入によって生活必需品や便益品などさまざまな消費財が国内に入ってきて、国民の生活をより豊かにする。輸出だけでなく、輸入によっても私たちの暮らしは豊かになる、これこそが富だということを表した。
富を増やすためには外国との自由な貿易を行う。それと同時に国内でも自由な経済活動をすることによって富が増えていく。アダム・スミスは単にどんどん輸入をすればいいとは言っておらず、いきなりたくさんの輸入を始めたら、それによって国内の産業が壊滅的な影響を受けてしまう可能性がある。だから徐々に輸入を増やすことが必要なのだと考えた。
人間だけが行うことのできる生産性を高めるための分業
~それぞれの利己心による社会的分業によって経済は回っている
アダム・スミスは、国の富を増やす具体的な方法も考えた。生産性を高めるための分業である。さまざまな産業で分業体制をとることによって、私たちの経済は豊かになっていくと、彼は指摘した。人間だけが分業をすることができる。動物は分業できない。人間だけが社会的分業を行い、世の中の経済が回っている。いろいろな仕事がありますが、それぞれの人が自分のことを考えて、その仕事をすれば利益があり生活をすることができるからやっているにすぎない。けれどもこれを社会全体で見ると、それによって世の中の経済が回っている。つまり、分業は相手への利他心ではなく利己心に働きかけて成立すると言っている。パンや野菜を食べられる、あるいはお酒が飲めるのは、あなたのために作ってくれているからではないということ。みんな儲けようとして利己心で作って売る人がいるから、私たちはそれを買うことができる。分業、しかも利己心による分業によって経済は動いている、その結果、経済がうまく回っていく。
市場=マーケットを大事にする自由放任を唱えたアダム・スミス
~経済は「見えざる手」に導かれ、うまく回っていく~
アダム・スミスは、輸出を増やすことによって国が豊かになることは認めているが、輸出を増やすために輸出を行う企業に国が補助金を出す「輸出奨励金制度」は批判している。補助金を目当てに生産性の低い産業に企業がどんどん参入すれば、支払う補助金が増えていく一方で、生産性の低い産業に企業が集まってしまる。それは国全体にとって決してよいことではない。自力でほかの産業に太刀打ちできなければ、それは仕方がないことであり、強い産業に人やお金が流れていくことが、結局は社会全体の資源配分の最適化につながるのではないか。
経済学は資源の最適配分を考える学問だが、アダム・スミスは、国が口を出したりせずそれぞれ自由にやらせていれば、結果的に資源が最適に配分されると考えた。つまり市場=マーケットを大事にすれば結果的に経済が豊かになる、奨励金のような余計なものは不要だと考えた。市場=マーケットも個々人が利益を求めて利己的に行動しても、見えざる手によって導かれ、結果として経済がうまく回っていくということ。ものの値段は需要と供給によって決まる。需要と供給のバランスはおのずと調整される。これを見えざる手に導かれるがごとくうまくいく、と表現した。
見えざる手 an invisible hand 『国富論』の第4編第2章に現れる言葉
概要
アダム・スミスは、投資家が自らの資産運用で、自らの利益を求め、その収益性と危険負担(リスク負担)を熟慮して運用しようとすることを指摘し、かつ擁護している。この様な部分知にしか基かず、全体を見渡した行動ではない(たとえその投資行動が社会全体の利益実現を何ら念頭に置いたものではなくとも)、自利心に導かれた行動、つまり、個別投資家の行動が自らに係る資産運用において安全かつ効率的であろうとすることが、結果的に、あたかも「見えざる手」に導かれるかの様に、全体としての効率的な投資を実現し、経済を成長させることを論じた。逆に、他人の個々の投資行動を指図しようとする行為は、誰も責任を取れない行為であり、有害であるか無益なものになる。
この言葉はしかし、現代の初等経済学では元の文脈を離れて、市場における自由競争が最適な資源配分をもたらす、(需給関係を通じた価格変動の)自動的な調整機能を指すものとして使われることが多い。
市場経済
市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される、とする考え方。スミスは個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が「見えざる手」によって達成されると考えた。スミスは、価格メカニズムの働きにより、需要と供給が自然に調節されると考えた。経緯
元々はキリスト教の終末思想に由来し、「人類最後の最終戦争には信徒は神の見えざる手により救済され天国へ行くことができる」などの教えからくるもので、これを経済論に比喩として用いたものである。『国富論』には1度しか出てこない言葉であるが、多くの経済議論に用いられ非常に有名となっている。また、神の見えざる手(invisible hand of God)ともいわれるが、『国富論』には「神の(of God)」という部分はない。人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。この利益は、例えば「莫大な利益を生み出し得る品物を生産する」といった形で事業を運営することにより、得られるものである。そして人がこのような行動を意図するのは、他の多くの事例同様、人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである。...he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain; and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention.— 『国富論』第4編「経済学の諸体系について」第2章