4月17日 天智天皇が近江宮に遷都

667年(天智天皇6年3月19日) - 天智天皇が近江宮に遷都


近江宮


1895年明治28年)建立の志賀宮址碑
(滋賀県大津市錦織二丁目)

近江宮(おうみのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)飛鳥から近江に遷都した天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。

史料には、近江大津宮(おうみのおおつのみや)、大津宮(おおつのみや)、志賀の都(しがのみやこ)とも呼称されるが、本来の表記は水海大津宮(おうみのおおつのみや)であったとの指摘がある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。

天智天皇

天智天皇

『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)

先代斉明天皇
次代弘文天皇

誕生626年
崩御672年1月7日
近江大津宮
陵所山科陵
御名葛城
異称中大兄皇子
父親舒明天皇
母親皇極天皇
皇后倭姫王
夫人越道伊羅都女
子女大田皇女
鸕野讃良皇女
建皇子
御名部皇女
阿閇皇女
山辺皇女
明日香皇女
新田部皇女
志貴皇子
大友皇子
阿閇皇子
阿雅皇女
川島皇子
大江皇女
泉皇女
水主皇女
皇居近江大津宮
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天皇系図38~50代
天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。

生涯

大化の改新と即位

舒明天皇の第2皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。

その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都した。、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、同9年11月16日(671年1月2日)に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同10年10月17日(671年11月23日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。

白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。

また、皇太子時代の斉明天皇6年(660年)と天智天皇10年(671年)に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせたことは著名で、後者の日付(4月25日)をグレゴリオ暦に直した6月10日は時の記念日として知られる。

万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。

第一番

秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」


【仮庵(かりほ)の庵(いお)】
「かりほ」は「かりいお」がつづまったもので、農作業のための粗末な仮小屋のこと。秋の稲の刈り入れの時期には臨時に小屋を立てて、稲がけものに荒らされないよう泊まって番をしたりした。「仮庵の庵」は同じ言葉を重ねて語調を整える用法。
【苫(とま)をあらみ】
「苫(とま)」はスゲやカヤで編んだ菰(こも=むしろ)のこと。「…(を)+形容詞の語幹+み」は原因や理由を表す言い方で、「…が(形容詞)なので」という意味を作る。よってここの意味は「苫の編み目が粗いので」となる。
【衣手(ころもで)】
和歌にだけ使われる「歌語(かご)」で、衣の袖のこと。
【ぬれつつ】
「つつ」は反復・継続の意味の接続助詞。ここでは、袖が次第に濡れていくことへの思いを表現している。


田圃の隅に建てた仮小屋に泊まり、獣が来ないよう番をしていると、夜も更け、冷たい夜露が屋根からゆっくりしたたり落ちてくる。屋根を葺いた苫(スゲ・カヤ)の目が粗くて隙間があるから、夜露は私の袖に落ちて、着物はだんだん濡れそぼってくる。

農作業で泊まり番をする農民の夜を描いた一首。農作業というと辛さを連想することも多いが、ここではそういう実感は少なく、夜に静かに黙想しているような静寂さと、晩秋の夜の透明感がより強く感じられる。非常に思索的な歌で、藤原定家は静寂な余情をもっている歌だとして「幽玄体」の例とした。